(大阪を代表する橋梁「難波橋」。「ライオン橋」の名前で親しまれています)
★ライオン橋(=難波橋、大阪市)
「江戸は八百八町、大坂は八百八橋」とまで言われるくらい、大阪は市街地を行く筋もの川が流れており、川を渡るために橋梁が多く架けられています。しかし、大阪に橋は多々あれど、こんなに意匠が洒落ている橋梁は、なかなかお目に掛かれません。大阪市中央公会堂から東側へ徒歩3分、石造りの難波橋は南北の橋詰4か所に、勇ましいライオンの石像を構えるため、通称の「ライオン橋」の名前で親しまれています。このライオン像は、彫刻家、天岡均一(あまおかきんいち)の作品と伝えられています。口を開けているライオンと、閉じているライオンは、「阿吽のライオン」とも呼ばれています。それにしても、なぜライオンなのでしょうか。
その真相は江戸時代、難波橋は200mを超える長大な橋梁で、反りのある橋上からの景色は周辺の十六橋や遠くの山々まで見渡せるほど抜群で、花火見物や夕涼みでは一等桟敷だったそう。そこで詠まれた狂歌が「西ひがし みなみにきたる なにわ橋 すみずみかけて 四四の十六」。この「四四」にひっかけて「獅子」となったのでは?とも言われていますが、諸説様ざま。江戸時代、難波橋は天神橋、天満橋とともに「難波の3大橋」と言われ長大な橋梁でしたが、大川は現在よりも川幅が広く、たびたび洪水が起こって氾濫し、木製であった難波橋は幾度となく被害を受けました。明治9年(1876年)架け替えの際、北側が鉄筋コンクリート造りに改修され、近代橋梁のさきがけとなりました。現在の橋梁は、大正4年(1915年)市電事業により堺筋に移設されるに伴い、重厚なアーチ型となり、市章を組み込んだ高欄華麗な照明灯、精巧な彫刻の橋塔などの意匠が施されました。現在でも大阪市民に親しまれています。
(現在の「難波橋」は、大正9年(1915年)建築の鉄筋コンクリート造り)
※なお、こちらの掲載画像は、当ブログが独自に定めるガイドラインに基づき、ブログ運営者がみずから撮影したものです。
(「難波橋」の案内板には、当時を描いた浮世絵があり、往時をしのぶことができます)
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