(小西家住宅。明治36年(1903年)建築であり、1900年代の商家建築の様式を色濃く残しています)
★旧小西家住宅(=旧小西儀助商店社屋、大阪市)
皆さん、「コニシボンド」って、知っていますか?黄色くて使い勝手のよい木工用ボンドです。今回紹介するのは、その「コニシボンド」の創業者の邸宅です。薬問屋街の道修町に残る旧小西家住宅は、近代大阪の町屋建築の集大成ともいえるような和風建築です。
大阪市船場は、特に薬種商人が集まっていました。堺から呼び寄せられた薬屋小西吉右衛門が店舗を構えたのを発端として、薬のまちとして名を馳せました。さらに、徳川吉宗公が旅の途中で病に倒れた際、道修町の薬で快癒したため、以後は薬種に適正な価格をつけ、独占的に、取り扱う特権を幕府から与えられたと言います。その後、西洋医学が導入され、薬も和薬から洋薬へと変遷していく中でも、道修町は薬種商の中心であり続け、田辺製薬や武田薬品工業、塩野義製薬などの製薬会社も誕生しています。
小西家は、初代儀助(ぎすけ)が安政3年(1856年。明治7年の説もある)、京都から大阪道修町に出て薬種業「小西儀助商店」(現在のコニシ株式会社)を創業したことに始まる商家で、谷崎潤一郎の『春琴抄』の舞台モデルとなったことでも有名です。『春琴抄』や『細雪』が映画化されたときには、旧小西家住宅が当時の資料として活用されたそうです。現在では、薬種商から発展したコニシ株式会社は、「木工用ボンド」の会社として全国的に有名です。およそ315坪の敷地に、主屋とその東側に建つ納屋、堺筋沿いには貸家、伏見町通沿いには土蔵と納屋、さらに主屋の裏には湯殿が設けられていました。
現在の主屋は、明治36年(1903年)から3年かけて造られたもの。表通りに面して商いを行う店棟と、その奥にある住居部分を奥庭を挟んで衣装蔵、および2階蔵が配置された「表屋造」と呼ばれる様式。衣装蔵は、明治45年(1912年)の上棟で、3階建ての土蔵造り。建築材もヒノキやスギ、マツ、桐などの良材を意匠に合わせて使い分け、シンプルながらも各部屋や茶室などには凝った意匠や工夫の跡が見られます。居住部分の台所の土間には、家族、従業員ら52名分(家族12名、従業員35名、下女5名)の食事を賄う必要があるため、大鍋4つを同時に調理できる大きな竈(かまど)があるそうです。天井が高いのは調理の湯気や煙が籠らないようにするためで、かつては道修町通から蔵に繋がるトロッコレールまであったそうです。儀助の居室があった書院の床の間は広々としていており、畳が敷かれています。家族が暮らすのは2階の座敷で、夫人が暮らす南側の隣りに女中部屋がありました。子ども部屋は南側の部屋から様子が見られるように配置されており、階段横の一段下がった和室の部屋が従業員に充てられていました。
明治44年(1911年)道路拡張により、「軒切り」と呼ばれる改築が行われ、貸家部分は撤去、主屋も西側に3間分が切り取られました。伏見通との角地となった部分に新しく衣装蔵(明治45年)が建てられたのはこうした事情だそうです。主屋にはかつて3階部分が存在していましたが、1923年に起こった関東大震災を機に撤去されています。なお、このときに撤去された3階部分への階段は、いまでも残っているそうです。
新社屋に移転する前には、座敷に絨毯を敷き、机の上にはコンピューターが並ぶという事務所風景が見られたそうですよ。現在もこの建物は、関連会社が事務所としてつかっているため、一般公開はされていません。主屋、衣装蔵、2階蔵および宅地は重要文化財。3階蔵は登録文化財。
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