「観るだけ美術部」部長は、2019年2月に大阪市へ出かけることになりました。そこでしばらくは、予習も兼ねて、大阪市の建築や美術について調べていきます。特に「大阪城」と「北浜」は行く予定を立てています。
大阪城って、天守閣しかイメージが無かったのですが、調べてみると、江戸時代創建の建物もたくさん残っていることを知りました(勉強不足!)。
(大阪城一番櫓。寛永5年(1628年)ごろの創建と伝えられています)
★大阪城 一番櫓(大阪市)
二の丸南側の石垣上には、2層2階でほぼ同規模の隅櫓(すみやぐら)が、東から西へ、一番から七番まで並んで建っていたそうです。こちらの櫓は、最も東に位置していたことから「一番櫓」と呼ばれていました。一番から七番までのうち、現存するのは、この「一番櫓」と「六番櫓」の2棟のみで、そのほかの櫓は、明治元年(1868年)の戊辰戦争と、昭和20年(1945年)の大阪空襲により焼失しています。
外側に当たる東面と南面を中心に窓が15か所あるほか、出入口が2か所、鉄砲や弓矢を放つための狭間(さま)は11か所あけられており、玉造口(たまつくりくち)に攻め入る敵を側面から一斉に迎撃することもできたそうです。また、東面には石垣を登ろうとする敵を撃退する石落としも2か所設けられています。
創建は徳川幕府による大阪城再築工事の最終段階である寛永5年(1628年)または寛永6年(1629年)と推定されています。戦後の解体修理の際に発見された部材の墨書銘により、創建後の主な修復は、万治年間(1658年-1661年)、寛文8年(1668年)、天保3年(1832年)の3度あったと考えられています。中でも天保3年(1832年)の修復は、解体工事をともなう大規模なもので、建物下の栗石(ぐりいし)の間から当時のものとみられる衣類が検出されたそうです。一番櫓の面積は、1階が167.98㎡、2階が96.31㎡、高さは14.3mで、「六番櫓」よりやや小ぶりになっています。重要文化財。
一番櫓周辺の櫓は、豊臣秀吉の正室である北政所(寧)の実家である東大番組頭、木下家が担当していました。徳川大阪城再建時には備後日出(大分県日出町)の木下延俊が担当しました。現在でも屋根瓦には、徳川家の家紋(葵の御紋)と共に、木下家の家紋も刻印されています。なお、木下家は江戸時代には、備中足守(岡山市)と備後日出(大分県日出町)の2か所を治める大名として続きました。
※なお、こちらの掲載画像は、当ブログが独自に定めるガイドラインに基づき、大阪城観光ガイドさま(HP)よりお借りしました。
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