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Channel: 「観るだけ美術部」部長のブログ
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[建築物]★大阪城 千貫櫓(大阪市)

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 「観るだけ美術部」部長は、2019年2月に大阪市へ行くことになりました。そこでここでは予習も兼ねて、大阪市の建築や美術について書いていきます。「大阪城」と「北浜」には行きたいと思っています!

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(大阪城 千貫櫓。褒美1000貫文にも匹敵する難攻不落の櫓だったそうです)

★大坂城 千貫櫓(大阪市)

 大坂城の西の丸庭園の西南隅に位置し、大手門(おおてもん)を北側面から防御する重要な隅櫓(すみやぐら)が「千貫櫓(せんがんやぐら)」です。西側と南側は外堀に面しており、大手門に向かう敵軍を側面から攻撃するのに絶好な場所に建てられていました。創建は徳川幕府による大坂城再築工事が開始された元和6年(1620年)です。戦後の解体修理の際、墨書銘で「元和六年九月十三日御はしら立/九月十三日」と、上棟式の日を記した部材が土台部分で見つかったことからほぼ断定できます。二の丸北西に位置する乾櫓(いぬいやぐら)と同様に大坂城最古の建造物でもあります。建築の設計・監督は、茶人としても有名な小堀遠州(こぼりえんしゅう)が担当しました。
 具体的な場所や規模は不明ですが、前身となる豊臣秀吉築造の大坂城にも「千貫櫓」はあり、さらにそれよりも前、織田信長が大坂を領していたころにも「千貫櫓」は存在していたようです。名称の由来に関しては、織田信長がこの地に合った大坂(石山)本願寺を攻めた際、隅櫓(すみやぐら)からの効果的な横矢に悩まされ、「あの櫓を落としたものには、千貫文の褒美を出しても惜しくはない」と兵士たちに話したため、という逸話が残っています。面積は、二の丸にあった櫓としては昭和20年(1945年)に焼失した「伏見櫓」に次ぎ、1階が217.26㎡、2階が162.95㎡で、高さは13.5m。西隣にあった「坤櫓」とほぼ同じ構造になっているそうですが、上層屋根の唐破風は特徴的な部分だそうです。構造は2層2階建てで、石落としは南面と西面に2か所ずつ、出入口は東面と北面に1か所ずつ。窓は外堀側を中心に25か所、白壁にあけられた鉄砲狭間(さま)は19か所あります。櫓を支えている石垣に◎の刻印が現存していますが、これは加藤清正の家紋だそうです。しかし、創建当時すでに加藤清正は亡くなっているので、この刻印は跡を継いだ肥後熊本藩主・加藤忠広のものと思われます。加藤忠広は、大坂城再築工事の割普請(分担)で、この一角を担当したと考えられています。重要文化財。
 「千貫櫓」は、江戸時代には大坂城代が直接管理する格式の高い櫓でした。城代はこの櫓で納涼したり、部下たちに食事を振る舞って慰労したという記録も残っているそうです。櫓の西側上層屋根の破風が桃山様式の唐破風になっているのが、その重要度と格式の高さを物語っているそうです。

※なお、こちらの掲載画像は、当ブログが独自に定めるガイドラインに基づき、大坂城観光ガイドさま(HP)よりお借りしました。

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