「観るだけ美術部」部長は、2019年2月に大阪市に出張することになりました。そこでここでは、その予習も兼ねて、大阪市に残る建築や美術について書いていきます。「大阪城」と「北浜」には行きたいと思っています。
(「市多聞」跡。ここにかつては多聞櫓が建っていたそうです)
★大阪城 大手口枡形の巨石、市多聞跡(大阪市)
枡形とは、城郭の主要な出入り口に設けられた四角い区画のことで、敵軍の侵入を食い止める役割を果たしました。築城技術の進歩にともなって強固な石垣造りのものが表れ、大坂城の大手口枡形では城郭の威容を誇示するため、多くの巨石が使用されています。大手門をくぐって正面に位置する大手見附石(おおてみつけいし)は表面積が29畳敷き(47.98㎡)で城内第4位、左側の大手二番石(おおてにばんいし)は23畳敷き(37.90㎡)で城内第5位、右側の大手三番石(おおてさんばんいし)は22畳敷き(35.82㎡)、いずれも採石地は瀬戸内海の小豆島と推定されています。現存する大坂城の遺構は豊臣時代のものではなく、元和6年(1620年)からおよそ10年間にわたった徳川幕府再築工事によるもので、石垣は将軍の命令を受けた諸大名が分担して築きました。この箇所は当初肥後熊本藩主・加藤忠広が築き、のちに筑後久留米藩主・有馬豊氏(ありまとようじ)が改築しました。
江戸時代、大坂城の大手口枡形には、現存する多聞櫓のほかにも、南側に東西13間5尺、南北3間の独立した多聞櫓が建っていたそうです。大手口枡形内には、定期的に商人の入場が許可され、この多聞櫓の中で、一年交代で大坂城に詰めた旗本(大番衆)が日用品が調達するための「市」が開かれたことから、「市多聞」という名前が付けられました。戊辰戦争によって焼失し、現在は礎石のみ残っています。なお、「市多聞」のあたりに現在作られている土塀は、市多聞焼失後に築かれたものです。
※なお、こちらの掲載画像は、当ブログが独自に定めるガイドラインに基づき、大阪城観光ガイドさま(HP)よりお借りしました。
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