(大阪城御金蔵。背後に見えるのは旧第四師団庁舎(MIRAIZA大阪))
★大坂城 御金蔵(大阪市)
大阪城天守閣の入口すぐ右側(東側)に「御金蔵」があります。徳川幕府時代に築造されたものです。幕末の動乱や太平洋戦争での大阪空襲での被害からも免れた現存する唯一の徳川幕府の金庫です。しかし、天守閣近くにあるからか、ほとんどその存在は知られておらず、通り過ぎていく観光客がほとんどだとか。江戸時代、大坂城は畿内西国支配の拠点であり、長崎貿易の莫大な収益金や、100万石を優に超えるという西日本にある幕府直轄領(天領)の年貢米を金銀に換算した公用金、大坂新地の地子銀、酒造仲間や舟仲間などからの運上金が、この「金蔵」に収められていたはず。江戸時代幕府の金貨・銀貨を保管した幕府直営の金庫だったわけです。江戸時代前期、元禄16年(1703年)の記録によると、入金高は金貨が36.8万両、銀貨が1.1万貫、大判金が48枚あったそうで、現在のレートに換算すると808億円が収められていたそうです。
大阪城の金蔵は、寛永3年(1629年)ごろに建てられたものが最初です。宝暦元年(1751年)この場所の南側にあった長屋(多聞櫓)を切断・改造し、もともと北西側に合った金蔵を「元金蔵」、この金蔵を「新金蔵」と呼んで区別していたそうです。のちの天保8年(1837年)に平屋建てに大改築されました。「元金蔵」は明治25年(1892年)に配水池建設のために、この「新金蔵」の東側に移築。「元金蔵」は、のち昭和4年(1929年)になって旧陸軍により高槻工兵隊の敷地内に再移築されましたが、大阪空襲で焼失しています。
「新金蔵」は、東西3間(5.46m)、南北8間(14.55m)、高さが5.8m、面積は93.11㎡。寄棟本瓦葺きひ平屋建て。外壁は、上部は軒裏まで白漆喰で塗り固められ、下部はなまこ壁となっていました。内部は大小2室あります。手前の大きな部屋に通常の出納用の金貨・銀貨、奥の小さな部屋に非常用の金貨・銀貨が置かれていました。防犯や防災、防湿には当時の最新の工夫が凝らされています。床下は石敷きで、地下からの侵入は不可能になっています。入口は三重構造。一番手前が重厚な開閉式扉、次に引き戸の扉があり、その奥に鉄格子戸が設置されていました。小窓は土戸と鉄格子で、床下の通気口にも鉄格子がはめられていました。また、鍵も慣れていないと簡単には開かない構造になっていたそうです。
ちなみに、金蔵保管の金貨銀貨が紛失した事件は、少なくとも2件あったことが記録に残っています。そのうちの1件は、元文5年(1749年)大坂城を守衛する旗本の中間(ちゅうげん)梶助が金4000両を盗み出した事件でした。しかし事件はすぐに露見し、梶助は武士でありながら市中引き回しの上、磔(はりつけ)となり、また監督責任を問われて常番の丹羽薫氏(にわしげうじ)以下が処分を受けています。
※なお、こちらの掲載画像は、当ブログが独自に定めるガイドラインに基づき、大坂城観光ガイドさま(HP)よりお借りしました。
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