★大阪瓦斯ビルヂング(大阪市)
昭和8年(1933年)大阪市が大正15年(1926年)から工事を大阪めていた御堂筋のほぼ中央に、「大阪瓦斯ビルヂング」、通称「ガスビル」が誕生しました。これは当時大阪における最も近代的で美しいビルディングと称されました。当時ビルディング内部には、ガス器具陳列場をはじめ、講演場、美容室、理容室、喫茶室、料理講習室、食堂(8階の食堂は本格的な欧風料理を提供する店として、現在でも人気)など、一般の方に広くご利用いただける様ざまな施設がありました。
ガスビル2階の講演場は、当時の最新設備を誇るおよそ600名収容のお洒落なホール。デビュー早々の朝比奈隆氏指揮による子ラシックコンサート、映画評論家淀川長治さん企画の名画試写会、ガスビル趣味の会ではエンタツ・アチャコの漫才なども行われ、いつも大勢の方々で賑わい、大阪における文化活動のひとつの拠点となっていきました。また、食事、喫茶、美容にと、ガスが開くモダンでハイカラな都市生活と文化の殿堂として広く市民に親しまれてきました。
(大阪瓦斯ビルヂング。昭和8年(1933年)建築のレトロなビルディング)
昭和8年竣工のガスビルを設計したのは、戦前の建築界にひとつの時代を築いた安井武雄(1884年-1955年)。安井武雄は1910年東京大学卒業。満州鉄道建築課、片岡建築事務所を経て、1924年安井建築設計事務所を創設しています。昭和16年(1941年)太平洋戦争が勃発し、ガスビルもその影響を大きく受けました。翌17年から18年にかけて、屋上ネオン塔、エレベーター、エスカレーター、手摺り、窓枠などは、不要不急の設備として金属供出され、また白亜のガスビルの外壁も、昭和19年から24年までは、自社生産のコールタールで真っ黒に迷彩塗装されました。昭和20年の大阪大空襲では、全館に備えられていたシャッターを下ろし、7・8階の一部を罹災しただけで難を逃れました。戦後は昭和20年から27年まで、2階講演場と6階以上の部分などが進駐軍に接収され、宿舎として使用されたとのことです。なお、昭和39年(1964年)にガスビルは北館が増築され、大林組により昭和41年(1966年)に竣工されました。設計は佐野正一によるもので、ガスビル南館の持つ風格を生かして一体的な機能を果たすよう考慮されています。
外壁面2階の横連窓は、都市生活に適した実用的でシンプルな直線と円弧を組み合わせたデザインで構成され、サッシは竣工当時まだ珍しかったステンレススチールをドイツから輸入したもの。
館内に入ると、ガス器具陳列場内に設けられた主階段(螺旋階段)。採光中庭より、ガラスブロックを通して柔らかな明るい光が降り注ぎ、ゆったりとした螺旋階段は、1階、2階、地下1階の3フロアのショールームを繋いていました。1階、2階の外壁には、勿来産黒御影石(花崗岩)と稲田産白御影石が貼られ、陳列場玄関とデッキガラスの嵌め込まれた柱廊(コロネード)は、バリアフリーでビルと歩道を一体化し、気軽に入館できる設計になっています。エレベーターホールの一部(4階-地下1階)は、外壁にイタリア産の大理石(トラバーチン)を貼り、床面には琉球産大理石(トラバーチン)が敷かれています。現在も昭和8年(1933年)竣工当時の面影を残しています。「都市建築の美の極致」とも言われたガスビルは、平成15年(2003年)文化財保護法に基づき、登録文化財に指定されています。
※なお、こちらの掲載画像は、当ブログが独自に定めるガイドラインに基づき、ブログ運営者がみずから撮影したものです。
↓いつも足しげく訪問していただき、ありがとうございます。きょうも1クリック、よろしくおねがいします。