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Channel: 「観るだけ美術部」部長のブログ
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[記念碑]★豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地 記念碑(大阪市)

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(豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地 記念碑。山里丸に設置されています)

★豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地 記念碑(大阪市)
 慶長20年(=元和元年、1615年)の大坂夏の陣では、旧暦の5月8日、徳川軍に追い詰められた豊臣秀頼と、その母親淀殿が、大坂城山里丸に在った櫓(どこの櫓なのかは特定できていない)にひそみ、自害したと多くの記録が伝えています。それにちなんで、平成9年(1997年)現在の山里丸の刻印広場東側に、大阪市によって、この記念碑が建てられました。
 観るだけ美術部長の父親は歴史小説が大好きで、山岡荘八『徳川家康』や、吉川英治『太閤記』を読み、「淀君は自害するのは痛いと言い、怖がって、家康と和睦をしたのが敗因だった」と、よく言っていましたが、こうして古戦場を見てみると、淀殿も最後には潔く自刃したというのがわかります。定めとは言え、戦(いくさ)とは恐ろしいものだなと思います。

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(淀殿並びに殉死者三十二名忠霊祠。こちらも山里丸に置かれています)

 なお、豊臣秀頼と淀殿は、山里丸で自刃したとされていますが、どの櫓で自刃したのかは、わかっていません。山里丸には、前掲の記念碑のほか、1978年(昭和53年)に小さな忠霊祠が建てられ、仏像が安置されています。こちらの祠には、淀殿並びに殉死した32名も合わせて祀られています。
 昭和55年(1980年)、山里丸が発掘調査された際に、頭蓋骨と、分離された首のない人骨が2組発見されており、さらにそのうちの1つは20代男性のものであることが判明しているそうです。20代男性の人骨には、顎に介錯されたときの切り傷があるほか、左耳に障害があったこともわかっています。人骨は1983年(昭和58年)京都の清凉寺に埋葬され首塚が築かれています。

※なお、こちらの掲載画像は、当ブログが独自に定めるガイドラインに基づき、ブログ運営者がみずから撮影したものです。

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