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Channel: 「観るだけ美術部」部長のブログ
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[建築物]★大阪城 六番櫓(大阪市)

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 「観るだけ美術部」部長は、2019年2月に大阪市に出かけることになりました。そこでここでは、予習も兼ねて、大阪市の建築や美術について紹介していきます。「大阪城」と「北浜」には行きたいと思っていますが、果たして時間が許してくれるのか?

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(大阪城六番櫓。寛永5年(1628年)の創建。石垣も美しいです)

★大阪城 六番櫓(大阪市)

 二の丸南側の石垣は、徳川幕府による大阪城再建工事の最終段階で築かれたもので、大変美しく見事な高石垣となっています。石垣上には、2層2階でほぼ同規模の隅櫓(すみやぐら)が、東から西に、一番から七番まで並んで建ち、白壁に屋根瓦の土塀がそれらを連結していました。この櫓は、東から数えて六番目に当たることから「六番櫓」と呼ばれていました。四番櫓、五番櫓、七番櫓は、明治元年(1868年)の戊辰戦争で破壊され、二番櫓、三番櫓は昭和20年(1945年)の大阪空襲で焼失しており、現存するのはこの「六番櫓」と「一番櫓」のみとなっています。
 外側にあたる南面と西面に石落としが1か所ずつ合計2か所設けられ、窓は外側を中心に25か所、鉄砲狭間(さま)が14か所、石狭間(さま)は10か所、石落としは5か所認められられ、外敵に備えた堅固な造りをしていました。創建は、徳川幕府による大阪城再築工事の最終段階にあたる寛永5年(1628年)。上層の切妻破風(はふ)を飾る東西の懸魚(げぎょ)のうち、西側の懸魚の裏側に「寛永五暦辰拾月吉日」と書かれてあるので、寛永5年(1628年)秋の第三期工事による創建と断定してよいでしょう。面積は、1階が224.16㎡、2階が133.43㎡、高さは15.4mあります。重要文化財。
 この辺りは西大番組頭が管理していました。この六番櫓には3代将軍徳川家光が描かせた襖絵が幕末まで残っていたらしく、文久3年(1863年)14代将軍徳川家茂が大阪城に出向いた際に、六番櫓に赴いて襖絵を拝観したという記録が残っています。
 なお、昭和34年(1959年)大阪城総合学術調査の際に、この石垣に90cm四方の横穴が発見されました。一時は秘密の抜け穴か、とも言われましたが、現在では戦時中、二の丸に防空壕を設置した際に開削された横穴とみるのが一般的になっています。

※なお、こちらの掲載画像は、当ブログが独自に定めるガイドラインに基づき、大阪城観光ガイドさま(HP)よりお借りしました。

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[特別展]★松浦武四郎 幕末維新を生きた旅の巨人展

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★松浦武四郎 幕末維新を生きた旅の巨人展
 北海道立帯広美術館、2018年12月15日(土)-2019年2月11日(月・祝) 

 江戸時代終わりごろの北海道を6回にわたり踏査し、「北海道の名付け親」とも呼ばれる松浦武四郎。旅に生き、時代を生きた彼の生涯を、地図や日誌、絵画、書簡、収集した古物(書画骨董品)などからたどります。

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[建築物]★大阪城 千貫櫓(大阪市)

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 「観るだけ美術部」部長は、2019年2月に大阪市へ行くことになりました。そこでここでは予習も兼ねて、大阪市の建築や美術について書いていきます。「大阪城」と「北浜」には行きたいと思っています!

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(大阪城 千貫櫓。褒美1000貫文にも匹敵する難攻不落の櫓だったそうです)

★大坂城 千貫櫓(大阪市)

 大坂城の西の丸庭園の西南隅に位置し、大手門(おおてもん)を北側面から防御する重要な隅櫓(すみやぐら)が「千貫櫓(せんがんやぐら)」です。西側と南側は外堀に面しており、大手門に向かう敵軍を側面から攻撃するのに絶好な場所に建てられていました。創建は徳川幕府による大坂城再築工事が開始された元和6年(1620年)です。戦後の解体修理の際、墨書銘で「元和六年九月十三日御はしら立/九月十三日」と、上棟式の日を記した部材が土台部分で見つかったことからほぼ断定できます。二の丸北西に位置する乾櫓(いぬいやぐら)と同様に大坂城最古の建造物でもあります。建築の設計・監督は、茶人としても有名な小堀遠州(こぼりえんしゅう)が担当しました。
 具体的な場所や規模は不明ですが、前身となる豊臣秀吉築造の大坂城にも「千貫櫓」はあり、さらにそれよりも前、織田信長が大坂を領していたころにも「千貫櫓」は存在していたようです。名称の由来に関しては、織田信長がこの地に合った大坂(石山)本願寺を攻めた際、隅櫓(すみやぐら)からの効果的な横矢に悩まされ、「あの櫓を落としたものには、千貫文の褒美を出しても惜しくはない」と兵士たちに話したため、という逸話が残っています。面積は、二の丸にあった櫓としては昭和20年(1945年)に焼失した「伏見櫓」に次ぎ、1階が217.26㎡、2階が162.95㎡で、高さは13.5m。西隣にあった「坤櫓」とほぼ同じ構造になっているそうですが、上層屋根の唐破風は特徴的な部分だそうです。構造は2層2階建てで、石落としは南面と西面に2か所ずつ、出入口は東面と北面に1か所ずつ。窓は外堀側を中心に25か所、白壁にあけられた鉄砲狭間(さま)は19か所あります。櫓を支えている石垣に◎の刻印が現存していますが、これは加藤清正の家紋だそうです。しかし、創建当時すでに加藤清正は亡くなっているので、この刻印は跡を継いだ肥後熊本藩主・加藤忠広のものと思われます。加藤忠広は、大坂城再築工事の割普請(分担)で、この一角を担当したと考えられています。重要文化財。
 「千貫櫓」は、江戸時代には大坂城代が直接管理する格式の高い櫓でした。城代はこの櫓で納涼したり、部下たちに食事を振る舞って慰労したという記録も残っているそうです。櫓の西側上層屋根の破風が桃山様式の唐破風になっているのが、その重要度と格式の高さを物語っているそうです。

※なお、こちらの掲載画像は、当ブログが独自に定めるガイドラインに基づき、大坂城観光ガイドさま(HP)よりお借りしました。

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[建築物]★大阪城 大手口枡形の巨石、市多聞跡(大阪市)

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 「観るだけ美術部」部長は、2019年2月に大阪市に出張することになりました。そこでここでは、その予習も兼ねて、大阪市に残る建築や美術について書いていきます。「大阪城」と「北浜」には行きたいと思っています。

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(「市多聞」跡。ここにかつては多聞櫓が建っていたそうです)

★大阪城 大手口枡形の巨石、市多聞跡(大阪市)

 枡形とは、城郭の主要な出入り口に設けられた四角い区画のことで、敵軍の侵入を食い止める役割を果たしました。築城技術の進歩にともなって強固な石垣造りのものが表れ、大坂城の大手口枡形では城郭の威容を誇示するため、多くの巨石が使用されています。大手門をくぐって正面に位置する大手見附石(おおてみつけいし)は表面積が29畳敷き(47.98㎡)で城内第4位、左側の大手二番石(おおてにばんいし)は23畳敷き(37.90㎡)で城内第5位、右側の大手三番石(おおてさんばんいし)は22畳敷き(35.82㎡)、いずれも採石地は瀬戸内海の小豆島と推定されています。現存する大坂城の遺構は豊臣時代のものではなく、元和6年(1620年)からおよそ10年間にわたった徳川幕府再築工事によるもので、石垣は将軍の命令を受けた諸大名が分担して築きました。この箇所は当初肥後熊本藩主・加藤忠広が築き、のちに筑後久留米藩主・有馬豊氏(ありまとようじ)が改築しました。
 江戸時代、大坂城の大手口枡形には、現存する多聞櫓のほかにも、南側に東西13間5尺、南北3間の独立した多聞櫓が建っていたそうです。大手口枡形内には、定期的に商人の入場が許可され、この多聞櫓の中で、一年交代で大坂城に詰めた旗本(大番衆)が日用品が調達するための「市」が開かれたことから、「市多聞」という名前が付けられました。戊辰戦争によって焼失し、現在は礎石のみ残っています。なお、「市多聞」のあたりに現在作られている土塀は、市多聞焼失後に築かれたものです。

※なお、こちらの掲載画像は、当ブログが独自に定めるガイドラインに基づき、大阪城観光ガイドさま(HP)よりお借りしました。

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[講演会]★(当館学芸員)「ギャラリートーク 画家たちの自画像 高橋由一からピカソまで展」

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★(当館学芸員)「ギャラリートーク 画家たちの自画像 高橋由一からピカソまで展」
 北網圏北見文化センター、2019年2月2日(土)、3日(日) 14:00

 物事に鋭い目を向ける画家たちは、自分自身をどのように見つめ描いたのでしょうか。自画像は、画家にとってはリアルな「いま」の自分を描いた作品とも考えられそうです。その描き方は、まさに十人十色。本展では、自画像を中心に82点を展示し、それぞれの画家の思いに迫ります。主な主点作家は、高橋由一、萬鉄五郎、安井曾太郎、佐伯祐三、レオナール・フジタ(藤田嗣治)、マルク・シャガール、ピカソなど。

※なお、こちらの掲載画像は、当ブログが独自に定めるガイドラインに基づき、北網圏北見文化センターさま(HP)よりお借りしました。

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[建築物]★大阪城 多聞櫓(大阪市)

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 「観るだけ美術部」部長は、2019年2月に大阪市へ出張することになりました。そこで、しばらく予習を兼ねて、大阪市の建築や美術について記事を書いていきます。できれば、「大阪城」と「北浜」には行きたいと思っています。

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(大阪城 多聞櫓。こちらが渡櫓で、右側に続櫓が接続されています)

★大阪城 多聞櫓(大阪市)

 大手門枡形(ますがた)の石垣の上に建つ櫓で、櫓門(大門、おおもん)の上をまたぐ渡櫓(わたりやぐら)と、その右側に直角に折れて接続する続櫓(つづきやぐら)によって構成されています。徳川幕府による大坂城再築工事により寛永元年(1628年)に創建されましたが、天明3年(1783年)に落雷によって全焼してしまい、嘉永元年(1848年)に再建されました。土塁や石垣上に築かれた長屋様式の建物を一般に多聞(多門)櫓と呼ぶのですが、その名称は、戦国時代の武将松永久秀(まつながひさひで)が大和国(現在の奈良県)の多聞城を築いた際、この形式の櫓を初めて造ったことに由来します。現存する多聞櫓の中でも、大坂城の多聞櫓は最大規模で、建築総面積は710.25㎡、高さは14.7m。渡櫓は内部には70畳敷きを最大とする部屋が4室、続櫓内部には廊下のほか9畳、12畳、15畳の部屋が計6室あって多数の兵隊や武器弾薬を備えることができ、枡形の内側には多くの窓があり、また櫓門(大門)をくぐる敵軍を真上から攻撃できる「槍落とし」の装置が設けられるなど、高い防御能力を備えています。大阪城の二の丸には京橋口、玉造口にも多聞櫓があったとされていますが、現存するのはここだけです。重要文化財。また、第四師団当時は兵学校の一部としても使用されており、昭和42年(1967年)の解体修理の際には当時使用された名札や土瓶、薬瓶などが発見されました。

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(大手門から侵入する敵軍を防ぐため、多聞櫓は重要な櫓でした)

※なお、こちらの掲載画像は、当ブログが独自に定めるガイドラインに基づき、大坂城観光ガイドさま(HP)よりお借りしました。

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[講演会]★熊谷麻美 「信貴山縁起絵巻 平安時代の絵巻物と親交の表現」

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(『信貴山縁起絵巻』、平安時代、奈良国立博物館)

★熊谷麻美 「信貴山縁起絵巻 平安時代の絵巻物と親交の表現」
 北海道立釧路芸術館、2019年2月14日(木) 11:00

 「ミュージアムセミナー 名画は語る」の第1回目として、国宝『信貴山縁起絵巻』を取りあげます。平安時代の庶民の生活の実態について、絵巻物の研究から視覚的に探究します。

※なお、こちらの掲載画像は、当ブログが独自に定めるガイドラインに基づき、北海道立釧路芸術館さま(HP)よりお借りしました。

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[建築物]★大阪城 大手門(大阪市)

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 「観るだけ美術部長」は、2019年2月、大阪市へ出張することになりました。そこでここでは、予習も兼ねて、大阪市に残る建築や美術について、書いていきたいと思います。「大阪城」と「北浜」には行きたいと思っているのですが、行けるでしょうか・・。

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(大阪城 大手門。小振りに見えますが、近づいてみると武骨で重厚な城門です)

★大阪城 大手門(大阪市)

 城郭の正面を「大手」(または追手(おって))と言い、その入り口を大手口(追手口)、設けられた城門を大手門(追手門)と呼びます。現存する大坂城の大手門は、寛永5年(1628年)徳川幕府による大坂城再築工事の際に創建された枡形門で、天明3年(1783年)落雷で多聞櫓が焼失した際にも延焼を免れた貴重な建造物です。追手門を抜けた枡形構造は、40m×50mの大規模なものです。
 構造は、正面左右の親柱(おやばしら)の間に屋根を乗せ、親柱それぞれの背後に建つ控柱(ひかえばしら)との間にも屋根を載せた高麗門(こうらいもん)形式です。屋根は本瓦葺き(ほんがわらぶき)で、城扉や親柱は黒塗り総鉄板張り(くろぬりそうてっぱんばり)の重厚な構造。開口部の幅は5.5m、高さは7.1m。屋根瓦には徳川家の「葵の御紋」が残っています。大手門の左右に接続する大手門北方塀、大手門南方塀とともに、重要文化財。
 慶応元年(1865年)14代将軍徳川家茂は、この大手門より入城していることが残された写真より判明しています。また、明治時代には、大阪鎮台(のちの第四師団司令部)の正門として使用されました。
 なお、親柱・控柱の下部はその後の腐食により根継(ねつぎ)が施されていますが、中でも正面右側の控柱の継手(つぎて)は、一見不可能にしか見えない技法が駆使されていることでも有名です。東西面(手前)は「蟻継ぎ」、南北面は山型と谷型の切り口を合わせた「殺ぎ継ぎ」と呼ばれるもの。昭和58年(1983年)にX線による調査が行われ、その構造がやっと解明されました。

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(これが「根継」。どうやって組ませたか、わかります?)

※なお、こちらの掲載画像は、当ブログが独自に定めるガイドラインに基づき、大阪城観光ガイドさま(HP)よりお借りしました。

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[道外展]★「大坂幕府」構想について記した小堀遠州の書状 初公開展

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★「大坂幕府」構想について記した小堀遠州の書状 初公開展
 大阪城天守閣、2019年1月26日(土)-3月19日(火)
(WEBサイト→)https://www.osakacastle.net/josetsuss

 江戸時代初期に徳川将軍家が大坂城に引っ越し、江戸幕府の本拠地とする「大坂幕府」ができたかもしれない可能性を示す書状が見つかり、このたび初公開されます。この書状の差出人は、茶人で造園家、徳川大坂城の作事奉行でもあった小堀遠州(1579年-1647年)で、縦17cm、横2.45m。寛永3年(1626年)12月17日付け。大坂夏の陣で焼けた大坂城を、2代将軍の徳川秀忠の命令で立て直した小堀遠州が、再築の基本設計を担当した義父・藤堂高虎に宛てたもの。2018年7月に、三重県の古文書収集家が名古屋市内の古物商から購入し、三重大学や大坂城天守閣の調査で本物と断定されたものです。
 書状には、大坂城の庭園に置く庭石の献上を藤堂高虎に勧める中で「大坂は、ゆくゆく御居城にもなさるべきところ」との記述があります。文脈などから、徳川秀忠や、3代将軍徳川家光の居城と考えていたことが読み取れるといいます。
 「大坂幕府」構想を示す史料は、この発見が初めてではありません。数年前に、薩摩藩の島津家久が幕府要人から大坂城を秀忠の居城とする予定を聞かされた、とする島津家所有の書状が見つかっています。
 大阪城はこの後、1629年に再建され、その3年後に秀忠が死去し、江戸での幕政が想定以上に円滑に行われ始めたことから、「大坂幕府」は実現しなかったと見られています。小堀遠州は後に、徳川家光の茶道師範になっています。江戸時代が「大坂時代」になっていたかもしれない貴重な資料の公開です。

※なお、こちらの掲載画像は、当ブログが独自に定めるガイドラインに基づき、大阪城天守閣さま(HP)よりお借りしました。

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[企画展]★冨樫カレンほか 「絵本で旅する世界の国々」

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★冨樫カレンほか 「絵本で旅する世界の国々」
 本郷新記念札幌彫刻美術館、2019年2月19日(土) 14:00

 世界各地の物語や文化を知る、絵本の旅に出かけましょう! 海外の絵本とその国にまつわるお話を楽しむ読み聞かせイベントです。大人も子どももご参加いただけます。

※なお、こちらの掲載画像は、当ブログが独自に定めるガイドラインに基づき、本郷新記念札幌彫刻美術館さま(HP)よりお借りしました。

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[企画展]★北海道の引き札あれこれ クローズアップ展示2

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★北海道の引き札あれこれ クローズアップ展示2
 北海道博物館、2018年12月15日(土)-2019年2月8日(日)

 引き札とは、商店などの宣伝のために作られた「ちらし」のことです。江戸時代における浮世絵の伝統を受け継ぎ、美人画のように色鮮やかで人目を引くようなデザインのものなど、主に大正時代まで、様ざまな引き札が全国各地で作られ、お得意さまに渡されたほか、店頭や街頭などでも配られました。ここでは、北海道博物館が、弥永北海道博物館で知られる研究科・収集家の弥永芳子さんから寄贈を受けた資料群(弥永コレクション)にある、明治から大正時代にかけて北海道内で作られたおよそ40点の引き札から、その一部を紹介します。

※なお、こちらの掲載画像は、当ブログが独自に定めるガイドラインに基づき、北海道博物館さま(HP)よりお借りしました。

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[企画展]★平野 遼 水彩画・墨彩画展

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★平野 遼 水彩画・墨彩画展
 北武記念絵画館、2019年1月12日(土)-2月17日(日)
 
 画家・平野遼は、1927年(昭和2年)大分県生まれ。9歳ごろより水彩画・鉛筆画・墨彩画などの技法を独学してきました。1951年(昭和26年)より自由美術家協会展に出品し続け、入選・受賞をし、1958年(昭和33年)会員に推挙されました。1964年(昭和39年)退会。主体美術協会の創設部員となります。1975年(昭和50年)退会。1992年(平成4年)逝去。享年65歳でした。本展では、晩年の抽象的な作品を中心に、およそ35点をご紹介します。

※なお、こちらの掲載画像は、当ブログが独自に定めるガイドラインに基づき、北武記念絵画館さま(HP)よりお借りしました。

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[建築物]★大坂城 桜門(大阪市)

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(大阪城 桜門。大阪城の正門で、明治時代の建築ながら、重要文化財に指定されています)

★大坂城 桜門(大阪市)

 大阪城天守閣や本丸へ向かう南側の正門、ちょうど「豊国神社」の向かい側に、紹介する「桜門」があります。大阪城には多くの城門がありますが、その中でもこの桜門は、江戸時代には本丸に入る正門となっていました。桜門周辺の内堀は、水のない空堀になっています。現在では緑が生い茂っています。内堀が空堀である理由は、この周辺が上町台地周辺の中で最も地盤が堅く、地下水脈まで掘ることができなかったためと言われています。
 桜門からは、大坂城の天守閣が真正面に見え、絶好の撮影スポットになっています。桜門は、重厚な総黒鉄板張り(そうくろてっぱんばり)の城扉。寛永3年(1626年)徳川幕府の大坂城再築工事の際に創建されていたのですが、のちに慶應4年(1868年)に陸軍により再建されています。江戸時代には、「桜門」と通ることができるのは、1万石の格をもつ大名のみだったそうです。「桜門」は、明治20年代に再度の改築が行われているので、「桜門」の建築年代は明治20年代ということになるのですが、それでも「桜門」は重要文化財に選定されています。これは珍しいことなのだそうです。「桜門」の高麗門様式の屋根には桐門がついており、「葵の御紋」が残っているはずなのですが、「葵の御紋」ではなく「桐の御紋」になっているのが、再建された証左だと言われています。
 「桜門」をくぐるとカタカナのコの字を左右逆にしたような形(桝形)になっていて、すぐに攻められないようになっています。「桜門」入ってすぐに、大坂城で最大級の巨石「蛸石」があります。城門の両脇にある石は「竜虎石(りゅうこいし)」と呼ばれ、『金城見聞録』によると、江戸時代には右に龍が、左に虎が現れると言われています。ただし、学芸員の北川さんによると、30年以上毎日通っているが、龍虎を見たことは一度もないとのこと)。

※なお、こちらの掲載画像は、当ブログが独自に定めるガイドラインに基づき、大坂城観光ガイドさま(HP)よりお借りしました。

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[企画展]★西村計雄 光の世界展

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(西村計雄 『夕日』)

★西村計雄 光の世界展
 西村計雄記念美術館、2018年9月29日(土)-2019年2月17日(日)

 本展では、西村計雄における光の表現に着目します。フランスに渡る前の作品から、晩年に取り組んだ「箱絵」までを一堂に展示し、およそ70年にわたる画業の変遷をたどります。

※なお、こちらの掲載画像は、当ブログが独自に定めるガイドラインに基づき、西村計雄記念美術館さま(HP)よりお借りしました。

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[特別展]★山本二三展 日本のアニメーション美術の創造者-天空の城ラピュタ、火垂るの墓、もののけ姫、時をかける少女-

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(山本二三 『天空の城ラピュタ 荒廃したラピュタ』、1986年)

★山本二三展 日本のアニメーション美術の創造者-天空の城ラピュタ、火垂るの墓、もののけ姫、時をかける少女-
 サッポロファクトリー、2018年12月1日(土)-2019年2月11日(月・祝)
(WEBサイト→)http://www.hbc.co.jp/event/nizou/(公式HP)

 『天空の城ラピュタ』(1986年)や、『火垂るの墓』(1988年)、『もののけ姫』(1997年)など、数々の名作アニメーション映画で美術監督を務め、高い評価を得ている山本二三さんの原画作品展です。山本二三さんは、1953年長崎県の五島列島福江島生まれ。優れた技術と感性に裏打ちされた美術の仕事で、アニメーションの世界を牽引してきた陰の立役者の一人でもあります。
 アニメーションにおける美術の仕事は、作品と調和し、キャラクターの物語を背後で支えているものです。入念な取材と構想、作家の手描きによる精密な描写の名作アニメーション映画などの背景原画、およそ230点をご覧いただきます。

※なお、こちらの掲載画像は、当ブログが独自に定めるガイドラインに基づき、サッポロファクトリーさま(HP)よりお借りしました。
 
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[常設展]★マルク・シャガール 『秋』

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★マルク・シャガール 『秋』
 大阪市/ニューオーサカホテルにて常設展示
(WEBサイト→)http://www.newosakahotel.com/gallery/

 「観るだけ美術部」部長は2019年2月に大阪市を訪れることになりました。今回はその予習も兼ねて、鑑賞する予定を立てている「ニューオーサカホテル」のマルク・シャガール『秋』を紹介します。こちらの作品は、もちろん原画。ホテルの西玄関を入ってすぐのところに飾ってあるのですが、説明書きもないので、素通りするお客さまも多いそうです。同ホテルには、ほかにもシャガールの『麗しのビテブスク』なども展示されているのですが、これらは当時のオーナーが個人的に収集したものだとか。シャガール展などが開催されたときには、こちらから貸し出されることもあるそうです。





 残念ながら、制作年代などは調べ上げられませんでした。ただ、画風はシャガール独特の浮遊感を存分に感じさせてくれる作品ですね。全体的に画面は明るく、中央には空に浮かぶ女性が描かれています。画面右側には太陽が明るく大きく描かれていて、さらに左上と右下、左下には、カップルやファミリーが束の間の休日を楽しんでいます。




※なお、こちらの掲載画像は、当ブログが独自に定めるガイドラインに基づき、ニューオーサカホテルさま(HP)よりお借りしました。


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シャガールの故郷ビテブスク(ヴィテブスク)市は、帝政ロシア領(現在のベラルーシ)の活気ある港町でした。シャガールは、この町の素朴な風景を好み、愛情と懐かしさを込めて繰り返し描いています。この作品には、母親らしき女性と、その子どもであろう幼な児が描かれています。その背後には牛(山羊かな?)が描かれています。生命の営みを感じさせる作品です。ビテブスク(ヴィテブスク)市は、ユダヤ人の多い地域で、シャガール自身もまた東欧系ユダヤ人でもありました。のちに、ユダヤ人の子どもたちが迫害されていく受難の歴史を目の当たりにしてきたこともあり、この作品にはユダヤ人への鎮魂の思いを描いているのかもしれません。描かれている女性は、一説としては、生涯ひとすじの愛を貫いた妻ベラかとも言われています(シャガールは「愛の画家」とも言われています)。


※なお、こちらの掲載画像は、当ブログが独自に定めるガイドラインに基づき、ニューオーサカホテルさま(HP)よりお借りしました。

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[道外展]★大坂城を描いた絵画 展

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★大坂城を描いた絵画 展
 大阪城天守閣、2019年1月25日(金)-3月18日(月)
(WEBサイト→)https://www.osakacastle.net/

 豊臣秀吉が天下統一の拠点とした大坂城は、豊後(現在の大分県)の戦国大名・大友宗麟が5層の大天守を見上げて「天下無双なり」と驚き、またイエズス会の宣教師、ルイス・フロイスが、織田信長の築いた安土城に比べ「二、三倍宏壮華麗」と評し、モンタヌス『日本誌』では「世界八番目の不思議」とまで称えられた城郭でした。この大坂城は、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で落城しますが、その後徳川幕府が再築し、幾多の戦火・災害を乗り越え、大阪市のシンボルとして現在に至っています。
 本展では、豊臣時代の屏風絵から外国人が描いた絵画、江戸時代の錦絵、さらに現代作品まで、大坂城を描いた絵画作品を紹介いたします。

※なお、こちらの掲載画像は、当ブログが独自に定めるガイドラインに基づき、大阪城天守閣さま(HP)よりお借りしました。

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[常設展]★マルク・シャガール 『麗しのビテブスク(ヴィテブスク)』

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★マルク・シャガール 『麗しのビテブスク(ヴィテブスク)』
 大阪市/ニューオーサカホテルにて常設展示
(WEBサイト→)http://www.newosakahotel.com/gallery/

 今回紹介するのは、大阪市に2019年2月に訪れた際、新大阪駅近くの「ニューオーサカホテル」で鑑賞した作品です。マルク・シャガールの『麗しのビテブスク』です。ホテルの東玄関を入ってすぐのところにあります。説明書きもないので、この作品には気づかないお客さんも多いと思います。こちらの作品はもちろん原画で、美術作品の収集が趣味だったオーナーが個人的に集めたものだそうです。シャガール展などが開催される時には、こちらから貸し出されることもあるのだそうです。
 シャガールの故郷ビテブスク(ヴィテブスク)市は、帝政ロシア領(現在のベラルーシ)の活気ある港町でした。シャガールは、この町の素朴な風景を好み、愛情と懐かしさを込めて繰り返し描いています。この作品には、母親らしき女性と、その子どもであろう幼な児が描かれています。その背後には牛(山羊かな?)が描かれています。生命の営みを感じさせる作品です。ビテブスク(ヴィテブスク)市は、ユダヤ人の多い地域で、シャガール自身もまた東欧系ユダヤ人でもありました。のちに、ユダヤ人の子どもたちが迫害されていく受難の歴史を目の当たりにしてきたこともあり、この作品にはユダヤ人への鎮魂の思いを描いているのかもしれません。描かれている女性は、一説としては、生涯ひとすじの愛を貫いた妻ベラかとも言われています(シャガールは「愛の画家」とも言われています)。

※なお、こちらの掲載画像は、当ブログが独自に定めるガイドラインに基づき、ニューオーサカホテルさま(HP)よりお借りしました。

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[講演会]★(釧路版画協会)「ピカソ版画の技法について」

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★(釧路版画協会)「ピカソ版画の技法について」
 北海道立釧路芸術館、2019年2月16日(土) 14:00

 20世紀絵画の巨匠ピカソはその長い生涯にわたって、およそ2000点にもおよぶ版画作品を制作しました。即興的な線描や独創的な版表現など、そこには油彩画とは異なるピカソの魅力があふれています。本展では、「青の時代」の先生な銅版画から、戦後の創意豊かなリトグラフ、そして晩年のカラフルなリノカットまで、国内有数のピカソ版画コレクションで知られる荒井記念美術館の所蔵品より、およそ100点の作品を紹介します。

※なお、こちらの掲載画像は、当ブログが独自に定めるガイドラインに基づき、荒井美術館さま(HP)よりお借りしました。

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[建築物]★大坂城 天守閣(大阪市)

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 「観るだけ美術部」部長は、2019年2月に出張することになりました。若干のフリータイムもあるようなので、そのときに「大阪城」と「北浜」に行きたいと思います。そこでしばらくは、その予習も兼ねて、これらの場所について調べ記事にしていきたいと思います。

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(大阪城天守閣。復興天守閣で3代目。昭和6年(1931年)の建築で登録文化財)

★大坂城 天守閣(大阪市)

 現在の天守閣は昭和6年(1931年)、大阪市民からの多くの寄付金を元手とし、「大坂夏の陣図屏風」に描かれた豊臣時代の天守閣を参考にして建設されました。鉄骨鉄筋コンクリート造りで、本丸から最上階の鯱(しゃちほこ)までの高さは54.8m、古典建築を近代的な技術によって再現した天守閣としては、わが国最初の復興天守第1号です。
 初代の天守閣は、豊臣秀吉が大坂城を開始して3年目となる天正13年(1585年)に完成し「太閤はんのお城」として大坂市民に親しまれましたが、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で苛烈な激戦の末、周辺の櫓もろとも完全に焼失。
 2代目の天守閣は2代将軍徳川秀忠主導によるによる再築工事の第2期工事により寛永3年(1626年)に現在の場所に築かれ寛永6年(1629年)に完成しました。寛文5年(1665年)硝煙櫓(火薬庫)に落雷があり、庫内の黒色火薬が82.4t、弾薬43万発がいっせいに暴発、天守閣を始め本丸御殿、多くの櫓が焼失損壊しました。以来、大坂城は天守閣のない城郭として幕末まで至っています。慶長3年(1868年)「王政復古の大号令」の後、二条城を追われた15代徳川慶喜は大坂城に居城しましたが、旧鳥羽伏見の戦いが始まると、大坂城を抜け出して江戸城に退却したため、大坂城は新政府軍に明け渡されました。なお、この戦闘で本丸御殿のほか、四番櫓、五番櫓、七番櫓は完全に焼失しています。
 3代目の(現在の)天守閣は、陸軍用地であった旧本丸一帯の公園化計画にともなって、昭和3年(1928年)11月に就任した当時7代大阪市長の關一によって再建が提唱され、市民の寄付によって昭和6年(1931年)に竣工。この市民の寄付には、申し込みが殺到したと言われ、およそ半年で目標額の150万円(現在の700億円に相当)が集まったそうです。そのうち25万円は、住友財閥の総帥、住友友成の寄付だったそうです。150万円のうち、天守閣の再建に47万円、第四師団司令部庁舎の建築に80万円、本丸などの公園整備に23万円が当てられました。
 3代目(現存する)天守閣は、徳川大坂城の天守台石垣に新たに鉄筋鉄骨コンクリートで基礎を固めた上に、鉄骨鉄筋コンクリート構造を吊り下げ工法で建てられました。5層8階で高さは54.8m、復興天守閣の内部は博物館「大阪城天守閣」となっています。外観は『大坂夏の陣図屏風』を基に、大阪市土木局建築家の古川重春が設計、意匠は天沼俊一、構造は波江悌夫と片岡安、施工は大林組が担当しました。全体フォルムは、『大坂夏の陣図屏風』(黒田長政、1615年)に描かれた豊臣時代様式の大坂城をモデルにしたとされています。建物は、太平洋戦争での大阪空襲でも焼失を免れました。3代目(現存する)天守閣は徳川時代様式の白漆喰壁とした一方、5層目は豊臣時代様式に黒漆に金箔で虎や鶴(絵図では白鷺)の絵が描かれています。平成9年(1997年)には復興以降初めての改修工事が完了し、阪神淡路大震災級の地震にも耐えられるように耐震補強されました。同年、歴史的景観に寄与する近代建築物として、国の登録有形文化財に指定されました。なお、戦後の学術調査によって、豊臣時代の天守閣は現在地よりも東側あったことが判明しており、高さはおよそ40m、配水池の地下付近から天守台石垣の一部が発見されています。

※なお、こちらの掲載画像は、当ブログが独自に定めるガイドラインに基づき、大坂城観光ガイドさま(HP)よりお借りしました。

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