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Channel: 「観るだけ美術部」部長のブログ
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[駅グルメ]★柿の葉すし(五條市ほか)

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(柿の葉すし。柿の葉にくるまれていて、風味がとてもよいですね)

★柿の葉すし(五條市ほか)
(WEBサイト→)http://kakinoha.com/(ヤマト商店)

 「柿の葉寿司」は、奈良県五條市や、和歌山県伊都地方の有名なお弁当。こちら「ヤマト」さんの柿の葉寿司は、駅弁や空弁ではないのですが、駅や空港でよく売られています。「柿の葉寿司 一筋 四十余年」だそうで、「創業時より一貫して素材を選び抜き、そして舌を頼りに「おいしさ」を追求してまいりました。先人の知恵と我々の想いが詰まった古都奈良の野趣をご賞味ください」との添え書きがありました。「ヤマト」さんのほか、「たなか」「平宗」「中谷本舗(屋号は「ゐざさ」)」「柿千」などが有名です

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(掛け紙大好きの部長も、こちらの絵柄に惹かれました)

 もともと「柿の葉寿司」は、江戸時代に生まれたと言われています。一説によると紀州藩の漁師が近海で獲れた鯖の腹に塩を詰め込む塩漬けにして、紀ノ川や熊野川の舟運を使い大和に着いた頃には塩気が強すぎたために、その塩気を和らげるために薄く削ぎ切りにして、酢飯と一緒に食べる方法を編み出したのが始まりとか。江戸時代中期以降は、夏まつりや祭事に欠かせない御馳走でした。柿の葉には殺菌効果があると言われ、数日程度は保存がきくほか、風味もよくなりますよね。
 柿の葉寿司を世に広めた人物のひとりが、谷崎潤一郎。自著の小説に登場させ、東京の握り寿司とはまだ違った一品と絶賛しています。

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(定番の「鯖」のほか、「鮭」もとてもよく合います)

※なお、こちらの掲載画像は、当ブログが独自に定めるガイドラインに基づき、ブログ運営者がみずから撮影したものです。

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[油彩画]★杉浦幹男 油彩画展

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★杉浦幹男 日本の四季風景 油彩画展
 札幌三越、2019年3月26日(火)-4月1日(月)

 日本の美しい四季風景を求めて取材を続ける杉浦幹男さん。第一美術協会名誉会員として会の運営に全力で取り組み、その緻密な筆遣いで、陽射しと風を感じさせる作品は高い人気を博しています。本展では、風景画を中心におよそ35点を展覧いたします。

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[建築物]★大坂城 南外堀(大阪市)

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(手前に見えるのが南外堀。石垣の隅に、隅櫓が連結して建っていました)

★大坂城 南外堀(大阪市)
 大坂城二の丸の南側に位置する外堀部分で、西側が大手口、東側が玉造口です。石垣の総延長はおよそ2km、外堀の最大幅はおよそ75mあり、寛永5年(1628年)、徳川幕府による大坂城第3期再築工事により、豊臣時代大坂城の堀跡に改めて石垣が築造されました。幕府の命令によって動員された大名は、肥前佐賀藩鍋島家、加賀金沢藩前田家、因幡鳥取藩池田家、筑前福岡藩黒田家など57家。内側の石垣上には東から、「一番櫓」から「七番櫓」まで7棟の隅櫓が建造されました。しかし、これらの隅櫓は戊辰戦争の大火によって四番櫓、五番櫓、七番櫓が焼失、さらに太平洋戦争の大阪大空襲により二番櫓、三番櫓を大破してしまったため、現在は「一番櫓」と「六番櫓」のみが残されています。一番櫓から七番櫓までは白壁で繋がっていたため、壮観な眺めだったことでしょう。

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(現存する「六番櫓」で、寛永5年(1628年)の建築。重要文化財)

※なお、こちらの掲載画像は、当ブログが独自に定めるガイドラインに基づき、ブログ運営者がみずから撮影したものです。

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[駅グルメ]★かなやの『かにめし』(長万部駅)

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(長万部が誇る駅弁、かなやの「かにめし」。昭和25年(1950年)からの歴史があります)

★かなやの「かにめし」
(WEBサイト→)http://www.e-kanaya.com/kodawari.html
(WEBサイト→)http://www.e-kanaya.com/(「かにめし」販売予定)

 全国の駅弁大会でも大人気の「かにめし」。長万部町の歴史・文化とも言える特産品です。現在では、全国のかにの産地で「かにめし」が売られるようになりましたが、その元祖は長万部駅のかなやの「かにめし」だと言われています。
 昭和の初め、函館本線と室蘭本線が交差する長万部町は、交通の要衝として多くの人々で賑わっていました。「かにめし」の誕生は、戦後、弁当の食材の入手が困難になり、駅構内で弁当を立売販売していた「かにめし本舗かなや(当時は長万部駅構内立売商会)」先々代の金谷勝次郎が、他の地方での食生活を査察するため地方出張に行った際、留守を預かる妻が弁当に代わるものをと、車内で「茹で毛ガニ」の販売したのがきっかけです。出張から戻ったじゃ津次郎は、妻が考案した茹で毛ガニの販売を大変喜び、カニのおいしさを一年中味わってもらえるようにと考え出したのが「かにめし」だったそうです。完成までに50種類以上の施行を繰り返し、その都度長万部駅の鉄道職員に試食してもらい、納得のいくまで作り込み、昭和25年(1950年)ついに「かにめし」は誕生しました。(長万部観光協会HP「かにめしの歴史」より)

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(車内販売終了後の2019年3月24日に地元のスーパーマーケットで購入。1080円)

 「かにめし」は、北海道に多くある海鮮弁当のように派手さはありませんが、食べれば食べるほど病みつきになる味ですね。しばらくたつと、また食べたくなるんですよね。多くある他駅の「かにめし」とは違い、カニの身はタケノコと一緒に水分がなくなるまでじっくり炒ってあるのが特徴。水分が飛び、カニの旨みがギュッと凝縮される印象です。付け合わせの佃煮も、第49回函館圏優良土産品推奨会において最優秀賞を受賞するほどの大人気商品です。

 全国の駅弁大会でも大人気のかなやの「かにめし」ですが、しかし、2019年2月28日、スーパー北斗、北斗号での車内販売終了に合わせて、「かにめし」の積み込みも終了となりました。昭和の情緒が、またひとつ消えることになってしまい、残念でなりません。しかし、かなやさんの「かにめし」は、駅前の売店、国道沿いのドライブインで、引き続き販売することになりました。駅前の売店は特におすすめで、販売所の横、すぐのところに特急の自由席の模した休憩所があり、そこで「イートイン」ができます。シートは、実際に特急列車で使われたものを購入して使用しています。正面のTV画面では列車の風景などの映像が流れており、車内でお弁当を食べている疑似体験ができますよ。

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(途中まで食べてから、ハッと気づいて写真を撮影。美味しくって、つい(笑))

 それにしても、昭和情緒がどんどん消えていくのには、寂しさしかありませんね。「昭和は遠くになりにけり」です。なお、国道沿いのドライブインでは「かにめしバイキング」もやっていて、好評ですよ。参考まで。

※なお、こちらの掲載画像は、当ブログが独自に定めるガイドラインに基づき、ブログ運営者がみずから撮影したものです。

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[企画展]★描かれた物語展

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(増田誠 『ギリシャ神話 ヘラクレスとクレタの牝牛』、1976年、北海道立帯広美術館)

★描かれた物語展
 北海道立帯広美術館、2018年12月15日(土)-2019年3月31日(日)
(WEBサイト→)http://www.dokyoi.pref.hokkaido.lg.jp/hk/obj/tenrankai/collection.htm

 古くから、絵画は物語から着想を得て、その世界を造形化してきました。本展では、様ざまな文学や神話、詩などを題材にした作品などにより、豊かな表現の広がりをご紹介します。

※なお、こちらの掲載画像は、当ブログが独自に定めるガイドラインに基づき、北海道立帯広美術館さま(HP)よりお借りしました。

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[建築物]★高麗橋 野村ビル(大阪市)

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★高麗橋野村ビルディング(大阪市)
(WEBサイト→)http://www.nomurashokusan.co.jp/retro/

 今回紹介する建築は、地下鉄堺筋線北浜駅から徒歩1分のところにある「高麗橋野村ビルディング」です。堺筋を歩いていくと、すぐにそれとわかるくらい、堂々とした風格を備えています。旧野村財閥の持ち株会社であった「野村合名会社」の地所部門が、最初に建てた貸しビルとしても有名です。現在のビル所有者である「野村建設工業」は、野村家の資産管理会社です。
 旧野村財閥の創始者・野村徳七は、事業の発展のためには、「事業所や店舗はその立地条件はもとより、規模や構造においても最高のものでなければならない」との信念を持っていたそうです。近代大阪の名建築のひとつとして称えられる「高麗橋野村ビルディング」は、そうした信念から生まれたものだったのです。

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(高麗橋野村ビルディング。1927年(昭和2年)の建築)
 
 この建物は、大阪ガスビルディングなどの設計でも知られる、関西地方を代表する建築家でもあった安井武雄(のちに当社の初代社長に就任)によって設計されました。竣工は1927年(昭和2年)、施工会社は大林組。構造形式は当時まだ珍しかった鉄骨鉄筋コンクリート構造です。戦前は、地上6階まであったそうですが、1964年(昭和39年)に7階層、および塔屋を増築して現在に至っています。
 建物は、堺筋に面する側は間口が広く、堂々たる風格を有しているのに比べて、奥行きは極端に狭いのが特徴。東洋的な装飾が施されており、モルタル塗りの腰壁は薄い褐色で統一されています。

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(建物を正面から。中央に玄関部分。左側にサンマルクカフェ。右側に和菓子店と階段部分)

 各階間の腰壁上端を外側に迫り出させる外壁形状は、ドイツのアインシュタイン塔(1921年)の設計でも有名なドイツ表現主義の巨匠、エーリヒ・メンデルゾーンが、ベルリン新聞社社屋(1923年)やショッケンデパート・シュトゥットガルト店(1927年)でとった手法だそうです。ベルリンの最新様式がわずか数年で大阪に伝わり、建築として現存していいることも驚きです。

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(正面玄関部分。左右に三日月型の玄関灯があり、オリエンタルな雰囲気)

 正面玄関の両脇に施されているオリエンタル調の装飾は、この建築をさらに印象深いものにしています。イスラームとも、日本ともつかぬ、三日月型の玄関灯や、各階を取り巻くように日本瓦を用いた東洋的な装飾で、ざらついた褐色の外壁は、聚楽第の外壁まで連想させるかのようです。ドイツ表現主義と東洋趣味が混在した「大大阪」時代を象徴するかのような近代建築は、ガラスを多用したいま流行りの高層ビルとは対極の深い雰囲気を感じさせてくれます。

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(正面右側にある当時の階段部分。急勾配ですが、雰囲気たっぷり)

 ビルの正面玄関に入ると、レトロな雰囲気が色濃く残るエレベーターがあるのですが、守衛さんからの許可が下りず、撮影は断念。1階は、左側に「サンマルクカフェ」が入店しています。中央が正面玄関、右側は上層階に続く階段が残っており、こちらは撮影させていただきました。2階以上の貸事務所部分は、さすがに廊下が狭く、天井も低いそうですが、当時の雰囲気は存分に伝えてくれているそうです。

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(階段部分の建物内部から、堺筋を望む。昭和初期の雰囲気を味わえるかも)

※なお、こちらの掲載画像は、当ブログが独自に定めるガイドラインに基づき、ブログ運営者がみずから撮影したものです。

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[三角点]★番外編 第230号水準点

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(一等水準点。番号は、第230号。大阪城に行く途中にあります)

★第230号水準点(一等水準点)
 歩いて大阪城に向かう途中、石柱を見つけました。でも、三角点とは、何やら違う雰囲気。よくよく見てみたら、水準点標石でした。こんなところで、ひょっこり出くわすとは。
 「水準点は、土地の高さを測定する場合の基準を与える標識で。標高が精密に測定されています。全国の主要道に沿って約2kmごとに設置され、各種公共事業の高さの基準、地震予知研究や地盤沈下による地殻変動の監視に重要な役割を果たしています」と、説明板にありました。

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(三角点と、似て非なりなものですね。道路沿いだと、見つけやすそう)

※なお、こちらの掲載画像は、当ブログが独自に定めるガイドラインに基づき、ブログ運営者がみずから撮影したものです。

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[企画展]★ジュリアーノ・バラリン ヴェネツィア・レースガラス展 伝説の美、和と洋の世界

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★ジュリアーノ・バラリン ヴェネツィア・レースガラス展 伝説の美、和と洋の世界
 北一ヴェネツィア美術館、2018年12月4日(火)-2019年4月8日(月)
(WEBサイト→)https://venezia-museum.or.jp/

 16世紀に最盛期を迎えた「レースガラス」は、ヴェネツィアの中でもムラノ島のみで制作され、その制作技法は決して島外に漏らすことを許されない門外不出の秘法として、優れた腕を持つガラス職人のみが代々受け継いできました。「レースガラス」は、それまでの装飾には観られなかった乳白色の色ガラスで表現したレースの細やかな模様と美しさで、ヨーロッパ各地の諸侯貴族を虜にし、豪華な宮殿を彩る装飾品として大流行したと言われています。現代においても、模様の複雑さや制作の難しさから、美しく繊細な模様を創り出せる熟練した職人は、ほんの数人しか存在しません。
 「世界初の試み」として当館がジュリアーノ・バラリンに制作依頼したレースガラスの和食器は、バラリン氏の作品が持つ特色を生かしつつ「従来の和食器のイメージを変えるもの」を目指し、芸術作品としての美しさだけでなく、「食器としての機能を果たす」という難しい課題の元に制作されました。本展では、その挑戦の末に数々の課題を克服し、ガラス技術のすべてを注ぎ込んで作られた、現代におけるレースガラスの第一人者であるマエストロ(職人の最高の称号)ジュリアーノ・バラリンが表現する美しいレースガラスの世界を、どうぞご堪能ください。

※なお、こちらの掲載画像は、当ブログが独自に定めるガイドラインに基づき、北一ヴェネツィア美術館さま(HP)よりお借りしました。

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[特別展]★岩船修三 生誕110年展

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(岩船修三 『海の静物』、1934年(昭和9年)、北海道立函館美術館)

★岩船修三 生誕110年展
 北海道立博伊達美術館、2019年2月9日(土)-4月7日(日)

 洋画家・岩船修三は1908年(明治41年)函館随一の繁盛を誇った岩船呉服店の3男として生まれました。国指定の名勝、香雪園(見晴公園/旧岩船氏庭園)は、岩船家の別荘として築造されたもので、当時の岩船家の繁盛ぶりがうかがわれます。岩船は、函館商業学校(現在の北海道函館商業高校)に入学後、美術部「極光画会」で油彩画に取り組みます。卒業後上京し、佐野忠吉の紹介によって洋画家の青山熊治に師事し、美術の世界に進むことを反対していた父親からの認められました。1930年8昭和5年)には帝展に初入選。1936年からフランスに留学し、ピカソやマティス、藤田嗣治らとも出会います。旭川で終戦を迎えた岩船は、全道展の創立に関わり、1946年に函館に戻ってからは、赤光社の再建に尽力するなど、北海道画壇を牽引する存在となりました。本展では、岩船修三の生誕110年を記念し、当館のコレクションによりその画業を回顧します。ヨーロッパで新しい美術思潮に触れたのち、アイヌ・ユーカラの世界へ心を寄せた岩船修三の歩みをご堪能ください。

※なお、こちらの掲載画像は、当ブログが独自に定めるガイドラインに基づき、北海道立函館美術館さま(HP)よりお借りしました。

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[コンサ]★J1第5節、キリン杯第2節

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 J1第5節 札幌 0-4 名古屋
 (キリン杯 日本 1-0 ボリビア)

  我らが北海道コンサドーレ札幌は、J1第5節、アウェイにて好調の名古屋グランパスと対戦しました。だいちゃんさん、スタジアムかな、ネット配信見てるかな、などと思いながら、自分は「ダ・ゾーン」での観戦でした。
 結果から言うと、完敗でした。J1優勝チームが天皇杯で地方代表チームとやっているかのような・・。もう、何から書いていいのかすら迷いますが、結論から言うと、グランパスのいいところを出させてしまった、というところでしょうか。コンサがやりたかった、糸を引くような連携のパスサッカーを、グランパスにやられてしまったという感じでした。代表帰りで身体が重いのか、FW武蔵も、MFチャナティップも、消えている時間帯が多かったですね。マンツーマン的にプレスをかけてくるのはわかっていたのに、それを外せない。ボールを取られてはカウンターに遭う、という悪循環。今年の名古屋、上位なのはダテじゃないですね。強いです。敵ながら、流れるようなサッカーは圧巻でした。脱帽。切り替えて、次節に臨むしかないですね。次節は大分トリニータ。このチームも好調でくせ者。でも、名古屋戦の敗戦を観て火が着きました。用事もあったのですが、週末の大分戦は参戦することにします!!
 FW武蔵が出た日本代表戦も、ちょっとだけ。2戦目も武蔵は途中出場。ゴールはできませんでしたが、けっこうよかったのでは、と思います。もっと武蔵の特徴を周りが把握して、ボールを廻してくれたら、フィットしてくるのではないかなと思いました。あと、だいちゃんさん、ミシャ監督ですが、代表監督向きではないです(笑)。決めごとも多いし、就任してすぐ結果も求められるので。U22ではFW岩崎も得点しましたし、次節も頑張ろう! FORZA、北海道コンサドーレ札幌!!

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[講演会]★東 俊佑 「北蝦夷地ウショロ場所物語」

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★東 俊佑 「北蝦夷地ウショロ場所物語」
 北海道博物館、2019年4月7日(日) 13:30

 1860年代の北蝦夷地(サハリン、樺太)西海岸ウショロ場所のアイヌ支配をめぐる日本とロシアの争いについて、資料に基づいてお話をする歴史講座です。越前大野藩の管理下で起こった「トコンベ一件」と呼ばれるこの事件の真相について、ウショロ場所のアイヌの公益帳簿の分析も交えながら考えてみます。

※なお、こちらの掲載画像は、当ブログが独自に定めるガイドラインに基づき、北海道博物館さま(HP)よりお借りしました。

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[建築物]★大江橋橋梁(大阪市)

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(大江橋橋梁。淀屋橋と並んで、景観が特に重視された。昭和10年(1935年)建築)

★大江橋橋梁(大阪市)
 中之島の北側に流れる堂島川に架かるのが、大江橋橋梁です。昭和10年(1935年)の建築で、設計は大谷瀧雄(基本意匠設計)、大阪市+武田五一(実施設計)、元良勲(意匠)。施工は大林組です。橋桁の長さは81.5m、有効幅員37.0m。淀屋橋よりも長く、淀屋橋と同時に施工された意匠の橋梁です。「大江橋と淀屋橋」として、2橋合わせて重要文化財の指定を受けています。構造形式は、大江橋、淀屋橋共に上路充腹式、鉄骨鉄筋コンクリート造りで、大江橋は4径間アーチ橋、淀屋橋は3径間アーチ橋、共に瀟洒な欄干が付いています。主桁構造は鋲結Ⅰ型鋼、床部構想は鉄筋コンクリートで、基礎は木杭基礎。高欄の構造は花崗岩貼りで、格子は青銅鋳物。上部に阪神高速1号線が横切っていますが、張り出したベランダと、レトロな外燈もあって、雰囲気はよいです。

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[文学展]★井上 靖 『海峡』展

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★井上 靖 『海峡』展
 井上靖記念館、2019年2月2日(土)-4月7日(日)
(WEBサイト→)http://inoue.abs-tomonokai.jp/

 『海峡』は、昭和32年(1957年)から昭和33年(1958年)にかけて、28回にわたり『週刊読売』に連載された長編小説で、野鳥研究に心を奪われた医師とその妻、雑誌編集長とその部下などが織りなす物語です。
 小説『海峡』の誕生にかかわった二人の人物、画家・福田豊四郎(挿絵担当)と、鳥類研究家・蒲谷鶴彦(登場人物のモデル)、そして作品の舞台となった青森県下北郡風間浦村(かざまうらむら)に関する資料などを、それぞれの角度から紹介し、その魅力を探ります。

 井上靖が小説『海峡』執筆時に宿泊した、風間浦村(かざまうらむら)の旅館が、このほど解体されることになりました。このことを知った井上靖記念館の学芸員佐藤さんは、関連する資料集めに奔走、執筆の舞台裏を紹介する本展の開催にこぎつけたそうです。『海峡』は、野鳥研究に心を奪われた医師が、東京から下北半島に向かう場面が印象的に描かれています。井上靖は昭和33年(1958年)3月、津軽半島を望む風間浦村の下風呂(しもふろ)温泉郷にある長谷旅館に2泊し、その場面を執筆しました。以降、長谷旅館は「海峡の宿」として、ファンに知られていましたが、数年前から休館状態となっていたことから、風間浦村は、旅館近くに新たな温泉施設を整備し、その施設内に井上靖が宿泊した部屋を復元することを決定。解体した旅館の建材を生かすことになりました。

※なお、こちらの掲載画像は、当ブログが独自に定めるガイドラインに基づき、井上靖記念館さま(HP)よりお借りしました。

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[特別展]★水辺のものがたり展

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(瀬戸秀樹 『海峡からの潮風(かぜ)立待岬』、2013年(平成25年)、北海道立函館美術館)

★水辺のものがたり展
 北海道立函館美術館、2019年2月9日(土)-4月7日(日)

 洋画家・岩船修三の生誕110年を記念し、当館のコレクションにより、その画業を回顧します。あわせて、豊かな水に恵まれた道南の景観を描いた作品をはじめ、「水」をモティーフにした作品を紹介します。

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[企画展]★アイヌ民族の文化財を未来へつなぐ 北海道博物館第13回企画テーマ展 博物館のはたす役割

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★アイヌ民族の文化財を未来へつなぐ 北海道博物館第13回企画テーマ展 博物館のはたす役割
 北海道博物館、2019年2月8日(金)-4月7日(日)

 博物館に収められているアイヌ民族資料は、アイヌの人々が連綿と紡ぎ続けてきた暮らしの実像を描き出す生き証人と言えます。この貴重な文化財を後世へ守り伝えるため、現在、北海道博物館では様ざまな取り組みが行われています。本展では、普段見えない博物館の裏側で実施されている活動について、資料を交えて紹介します。

※なお、こちらの掲載画像は、当ブログが独自に定めるガイドラインに基づき、北海道博物館さま(HP)よりお借りしました。

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[建築物]★淀屋橋橋梁(大阪市)

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(大阪市に数ある橋梁の中でも、最も魅力を感じると言われる淀屋橋橋梁)

★淀屋橋橋梁(大阪市)
 中之島の南側に流れる土佐堀川に架かるのが、淀屋橋橋梁です。昭和10年(1935年)の建築で、設計は大谷瀧雄(基本意匠設計)、大阪市+武田五一(実施設計)、元良勲(意匠)。施工は大林組です。橋桁の長さは54.5m、有効幅員37.0m。大江橋よりも短くなっています。デザインは特に重視され、大正13年(1924年)には橋梁としてはそれまでほとんど例のないデザインコンペが行われ、全国から意匠設計を募集されました。コンペでは幅員、橋長などのほかに、主構造を鉄骨鉄筋コンクリートのアーチ橋とし、大江橋と淀屋橋は同一のデザインとすること、周辺の建築物や背景と調和すると共に、2橋の間の道路部分のデザインも考えること、などの条件が示されました。1等に当選した大谷瀧雄案は、選評によれば「南欧中世紀の気分ある近代士気を用い、その根底においては東洋趣味の横隘せる・・(中略)・・全体の形、極めて端正剛健、その形状の比例最も洗練を経たり。その主要材料たるコンクリートを様式の上に表現せんとする作者苦心の跡、最も注意すべし」とあります。この計画案に手が加えられ、実施計画が作成されました。
 構造形式は、大江橋と同じく上路充腹式、鉄骨鉄筋コンクリート造りで、大江橋は4径間アーチ橋なのに対し、淀屋橋は3径アーチ橋で、共に瀟洒な欄干が付いています。主桁構造は鋲結Ⅰ型鋼、床部構造は鉄筋コンクリートで、基礎は木杭基礎。高欄の構造は花崗岩貼りで、格子は青銅鋳物。
 竣工後の改修としては、高欄の格子が戦時中の金属供出により取り払われ、木製のものに代わっていたのが、昭和62年(1987年)になって青銅製のものに戻されています。また、船舶航行の際の床面保護の目的で、平成12年(2000年)淀屋橋の床板補強工事としてアーチ部下面に鋼板接着を行っています。「大江橋と淀屋橋」として、2橋合わせて重要文化財の指定を受けています。

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[音楽会]★ジブリの思い出がいっぱい オーケストラによるドリームコンサート

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★ジブリの思い出がいっぱい オーケストラによるドリームコンサート
 札幌コンサートホール・Kitara、2019年4月6日(土) 13:00

 子どもから大人まで、誰もが知っているジブリ作品の中から、心に響くジブリの名曲をオーケストラでお届けします。

■プログラム(予定)
 『風の谷にナウシカ』より、「鳥の人」
 『となりのトトロ』より、「となりのトトロ」「さんぽ」「風のとおり道」
 『千と千尋の神隠し』より、「いつも何度でも」
 『天空の城ラピュタ』より、「君をのせて」
 『風立ちぬ』より、「旅路(夢の王国)」「ひこうき雲」
 『ゲド戦記』より、「テル―の歌」
 『魔女の宅急便』より、「海の見える街」「やさしさに包まれたなら」
 『崖の上のポニョ』より、「母と海の讃歌」「崖の上のポニョ」
 『ハウルの動く城』より、「人生のメリーゴーランド」「ひまわりの家の輪舞曲」
 『紅の豚』より、「時には昔の話を」 
 『おもいでぽろぽろ』より「愛は花。君はその種子」
 『耳をすませば』より、「カントリーロード」 ほか

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■出演者
 司 会/島本須美(ナウシカ役の声優)
 歌 唱/ザ・ブリーズアドベンチャーズ
      (いのり、はなみ、うっちー、ほか)
 指 揮/塚田隆雄
 管弦楽/ドリームチェンバーオーケストラ

※なお、こちらの掲載画像は、当ブログが独自に定めるガイドラインに基づき、札幌コンサートホールKitaraさま(HP)よりお借りしました。

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[版画展]★手塚治虫 生誕90周年版画展/アニメ・アート展

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★手塚治虫 生誕90周年版画展/アニメ・アート展
 帯広藤丸百貨店、2019年4月4日(木)-4月9日(火)

 漫画の神さま、手塚治虫。生誕90周年記念した新作版画も加えた、およそ90点を揃えて展示販売いたします。なお、4月7日(日)には、手塚治虫とともにアニメーションを手がけた小林準治さんによるサイン会も予定されています(13:00より)

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[郷土展]★北海道の繊維産業 クルーズアップ展示2

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★北海道の繊維産業 クルーズアップ展示2
 北海道博物館、2018年12月15日(土)-2019年4月12日(金)

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 亜麻は繊維用と種子(亜麻仁油)用があり、茎から繊維をとる品種の亜麻が寒冷な北海道に適していました。また、緬羊からとる羊毛は、寒い冬を乗り切るための必需品でした。明治時代に開拓使が招いたお雇い外国人の奨めで始まり、民間の努力を経て、全道各地に広まった亜麻と羊毛。その歴史と道具を紹介します。

※なお、こちらの掲載画像は、当ブログが独自に定めるガイドラインに基づき、北海道博物館さま(HP)よりお借りしました。

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[建築物]★旧小西家住宅(=旧小西儀助商店社屋、大阪市)

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(小西家住宅。明治36年(1903年)建築であり、1900年代の商家建築の様式を色濃く残しています)

★旧小西家住宅(=旧小西儀助商店社屋、大阪市)

 皆さん、「コニシボンド」って、知っていますか?黄色くて使い勝手のよい木工用ボンドです。今回紹介するのは、その「コニシボンド」の創業者の邸宅です。薬問屋街の道修町に残る旧小西家住宅は、近代大阪の町屋建築の集大成ともいえるような和風建築です。
 大阪市船場は、特に薬種商人が集まっていました。堺から呼び寄せられた薬屋小西吉右衛門が店舗を構えたのを発端として、薬のまちとして名を馳せました。さらに、徳川吉宗公が旅の途中で病に倒れた際、道修町の薬で快癒したため、以後は薬種に適正な価格をつけ、独占的に、取り扱う特権を幕府から与えられたと言います。その後、西洋医学が導入され、薬も和薬から洋薬へと変遷していく中でも、道修町は薬種商の中心であり続け、田辺製薬や武田薬品工業、塩野義製薬などの製薬会社も誕生しています。

 小西家は、初代儀助(ぎすけ)が安政3年(1856年。明治7年の説もある)、京都から大阪道修町に出て薬種業「小西儀助商店」(現在のコニシ株式会社)を創業したことに始まる商家で、谷崎潤一郎の『春琴抄』の舞台モデルとなったことでも有名です。『春琴抄』や『細雪』が映画化されたときには、旧小西家住宅が当時の資料として活用されたそうです。現在では、薬種商から発展したコニシ株式会社は、「木工用ボンド」の会社として全国的に有名です。およそ315坪の敷地に、主屋とその東側に建つ納屋、堺筋沿いには貸家、伏見町通沿いには土蔵と納屋、さらに主屋の裏には湯殿が設けられていました。

 現在の主屋は、明治36年(1903年)から3年かけて造られたもの。表通りに面して商いを行う店棟と、その奥にある住居部分を奥庭を挟んで衣装蔵、および2階蔵が配置された「表屋造」と呼ばれる様式。衣装蔵は、明治45年(1912年)の上棟で、3階建ての土蔵造り。建築材もヒノキやスギ、マツ、桐などの良材を意匠に合わせて使い分け、シンプルながらも各部屋や茶室などには凝った意匠や工夫の跡が見られます。居住部分の台所の土間には、家族、従業員ら52名分(家族12名、従業員35名、下女5名)の食事を賄う必要があるため、大鍋4つを同時に調理できる大きな竈(かまど)があるそうです。天井が高いのは調理の湯気や煙が籠らないようにするためで、かつては道修町通から蔵に繋がるトロッコレールまであったそうです。儀助の居室があった書院の床の間は広々としていており、畳が敷かれています。家族が暮らすのは2階の座敷で、夫人が暮らす南側の隣りに女中部屋がありました。子ども部屋は南側の部屋から様子が見られるように配置されており、階段横の一段下がった和室の部屋が従業員に充てられていました。

 明治44年(1911年)道路拡張により、「軒切り」と呼ばれる改築が行われ、貸家部分は撤去、主屋も西側に3間分が切り取られました。伏見通との角地となった部分に新しく衣装蔵(明治45年)が建てられたのはこうした事情だそうです。主屋にはかつて3階部分が存在していましたが、1923年に起こった関東大震災を機に撤去されています。なお、このときに撤去された3階部分への階段は、いまでも残っているそうです。
 新社屋に移転する前には、座敷に絨毯を敷き、机の上にはコンピューターが並ぶという事務所風景が見られたそうですよ。現在もこの建物は、関連会社が事務所としてつかっているため、一般公開はされていません。主屋、衣装蔵、2階蔵および宅地は重要文化財。3階蔵は登録文化財。

※なお、こちらの掲載画像は、当ブログが独自に定めるガイドラインに基づき、ブログ運営者がみずから撮影したものです。

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